Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

 二日続けて、それ程の量ではないが遅い時間まで呑んだこともあり、今日は日がな揮発し切らないアルコールが残ったかのような身体の火照りを抱えながら、仕事をすることになった。火照りと言いながら、不完全燃焼そのものだった。なんだろう、この熱は?と思えば自ずと、「身体の各部が回復を目指してもがいてくれているのだ」とすらすら回答が浮かんできて、申し訳なくなった。また繰り返すのだろうが、せめて月末までは断酒を開始することにした。本当に今日からそれは守ろうと思う。
 本当のところは、この熱が何によるものか、検索もしていないし、元々医学に詳しいわけでもないので、分からない。それでも、こうした自分という意識の側から語るだけでなく、身体という他人側から語るような表現はもっとあって良いと思うことになった。それは、仕事をいつもより早く切り上げて、散髪に訪れていた夕方、眼前のモニターに映る天気予報に対して、やや具体的な姿で現れた。それは、器具、道具、機器、装置といった様々な物が今日どのくらい目減りしたか?摩耗したか?傷んだか?を数値や定性的な表現で伝えるという、名付けるなら「今日人間が人間により失ったもの日報」とでもいえるだろうか? こう書くと、「物だけではなく、生物も加えるべきだ」という考えもすぐに浮かぶが、ちょっとそれらからデータを取得するのは、まだ避けたいと思った。向き合い切れない状態が続いた後、今度は逆にその数値や状態の深刻さにも麻痺してしまいそうだと思ったのだ。そうしないと、自分がその重みに耐えられないからという理由で。これが、物になると、物の命が軽いわけではないが、まだ向き合えると思ったのだ。
 相手の立場に立って考えてみるというのは、物にだって当てはまることだろう。全然真新しくもないことだが、古臭いことでもない。ただ、今回、そうした物の状態を表現するにあたり、物を擬人化して物自身に語ってもらうという形式にはしたくないと思ったことは付け加えておきたい。それが何故なのかは、今はまだ上手く言えないが。明日、もしくは明後日、ちょっとした瞬間にふと「呑もうかな?呑もう」と浮かぶことならあるだろう。それならちょうどいい、「呑もう」をしばらくは「物」に置き換えて、物を擬人化したくない理由を考えることにする。