Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

変わり目

 自分の好みの対象が、必ずしも周囲からも賛同を得ているとは限らない。そういう当たり前の状態がずっと続いていて、これからも続くはずだと思っているところに、突然変異のように、何なら自分よりも周囲の方がまるで昔からその対象のことを好きだったと、そんな捏造のようなカフカの変身的な変化を経ていることがある。今のところ、そういうことは数少ないように思えるが、それも体感上の話で、実際は意識に上らないレベルで、そういう変化は起こっているのかもしれない。否、起こされているのかもしれないと書くべきか。というのも、私にとっては、最近も時々思い出す人物、井上陽水がまさにこの対象だったからだ。
 80年代中頃、彼は確かに既に大御所で話題作、ヒット作も多数ある中でさらにそういう評価を得るような作品を発表し続けていたが、それでも、私の周囲では、彼の初期の作品などは口にするのは恥ずかしい、好きというのはかっこ悪いくらいの共通認識が醸成されていたと思う。はっきり、周囲がそのように申し合わせたわけではないが、当時のちょっとした会話単位の経験を通して、そういう共通認識があるのを私は感じ取っていた。私は10代だったが、初期の作品に参っていた。従兄が所有するレコードに、初期の全作品が揃っており、音源のみならず、本人の風貌を含むジャケットのビジュアルや手書きの歌詞の文字といったあらゆるものにやられた。気付いたら、のめり込んでいた。本当にかっこいいと思っていた。中にチラシを挟むことができる透明の下敷きに、雑誌か何かで手に入れたカーリーヘアの初期の彼の写真を入れて学校で使っていた。
 学校では、当初、「信じられない」、「何故?」といった声が上がっていたが、迷うことなくのめり込み続け、若さゆえの頑固さで周囲への啓蒙として「いいから聴いてみれば分かる」といった、高年齢層の男性のような物言いを続けるくらいにまで至ったら、依然呆れられてはいるものの、周囲が根負けしたのか、特に揶揄のような類の声は聞かれなくなっていた。
 ―「それがどういうわけか、朝起きて学校に行ったら、今日も対照的なはずだった周囲の雰囲気が一変していた」―。これは喩えで、具体的な出来事を今思い出すことはできない。それなら、この話は破綻しているじゃないか?と突っ込まれるのは承知で書いている。でも確かに、舞台の場面転換のような動きで、何か、彼を好むことは「当然。だって、才能ある素晴らしいアーティストだから」のような捉え方をされるくらいに変わっていた。
 この変化が、事実か否かは人によるだろう。それでも、人為的な操作の介入を感じずにはいられない。企業のマーケティングを持ち出すまでもなく、こういう操作は容易くなくとも実現の確度は低くはないのだろうと想像もする。そして、いやな気持ちにはなる。ここで、「自分の場合はどうか?」と考え始めていた。自分が外部の操作とは殆ど無関係に突然変化していて、それに気付いていることはあるのか?という問いが浮かんだ。
 突然の変化というのには、季節と同じように緩やかな変化だが、体感上は突然と捉えられている場合と、本当に、スイッチを切り替えるように変わっている場合の二つがあると思う。殆ど話さなかった同僚が退職した。退職の旨を知った頃は寂しいなとは思っていたが、いざ当日となると、そんなものではなかった。でも、最後の挨拶で言葉を交わす際には気付けば、つまり、突然のごとく、いつも以上にそっけなく笑いながら話し掛けていた。この変わり目の中にある表情はどんなものか? 単純なものではないだろう。かくして突然なものも緩やかなものに思えてくる。