Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

木を見て人を見る

 くもりガラスの向こうじゃなくても風の街に2泊し、再び移動する。風の街は風の国にあり、観光都市とも形容されている。今回再訪となったが、前回よりも輪をかけて観光らしい観光はしなかった。ただし、思いは前回以上に巡らし、また、母国の人たちが日常利用する場所で多くの時間を過ごすことはできたと思う。十分に満足だ。激しい高揚というのはないが、その方がこの思いを信じることができる。観光都市というのにも、観光しなくても観光同等かそれ以上の喜びをもたらす都市があるのだろう。
 人々の顔や姿や行動を、じろじろではなく眺めることができた。この点は再訪ということも有利に働いたのかもしれない。前回もそうだったが、屈託のない表情、この街に暴力沙汰はあるのか?と思い込むことができるに十分な、妙な勘繰りをしていないに違いない生き生きとした、誇りを持った表情ばかりだったと感じる。もちろん、皆が皆満面の笑みだったわけではないし、どこか蔑視する意味を含んだ「単純」というのでも決してない。街に溢れる自転車で疾走する姿と同様に、そんなことにかまっている暇はとっくにないと無意識下で分かっているかのような空気を感じた。正しい正しくないか?はそれほど重要ではないし正しいと思っているのだが、間違いないのは「次回この街を訪れた際に私が何を思うか?」が今から楽しみということだ。
 とにかく、入国前には勘ぐって用心に用心をと、なるべく安っぽく汚い格好となるよう、古着のファストファッションのナイロンジャケットを購入し、髭を蓄えて準備した。一人旅の我が身を守る目的とはいえ、大変失礼だったなと思うことになった。通り過ぎる人、安ホテルのスタッフ、皆が皆、訝し気な視線というものを放ってこない。これはすごいことだと思う。そう思うのが、異常だとしても。まっすぐにこちらを見て、少し微笑んだり、真剣に耳を傾けようと真面目な顔付きになってくれる。嬉しかった。
 とはいえ、「人間尊重」といちいちおそらくは文字として掲示されることはないはずの街だろうけれど、だからといって人間がそんなに大切にされまくっているという気もしなかった。到着日に左腕の傍、幅にしてわずか数㎝を、警笛を鳴らしながら50、60㎞の速度で追い越していったトラム。前述した通り、至る所で疾走する自転車。横断者は、自転車を優先するかのように、自転車と自転車の間の隙を見ている。自転車が横断者を優先しているわけではなかった。その自転車は、地下鉄にも持ち込むことができるため、降車した乗客の中にはホームの上で既に自転車で跨って移動を始める人もいた。
 その光景にふと「このホームで自転車ごと飛び込み自殺しようと思えば簡単にできるだろうな。でもそんなことはまず起こらない街だ」と、気持ちの悪い想像と共に、はっきりとした根拠はないが確信を覚えていた。「自転車ごとの自殺というのは、人間が死ぬ意味での自殺と、自転車を人間が巻き添えにして殺してしまうという意味の略語での『自殺』の二つがあるな」とも思った。
 人ばかりが大切にされているのではないと思ったのだ。これには、人が一定の範囲に密集していないということも大きいと思う。調べたわけではないが、都市部に人口が密集しないように様々な金額設定も為されているのではないか?と思った。また、こうして書きながら、「人ばかりが大切にされる」というのは「皆が皆大切にされるということではなく、『人が粗末にされる』を含んでいるから成り立つ」と恐ろしいことを思った。ともかく、外の公衆トイレの多くが有料なのも、色々なものが人同様に大切されているからだと思うことになった。
 人以外といえば、目に付くのが木だ。森を見ることはできなくても、自転車以上に至る所で木々を目にすることができる。今、これはICEという高速鉄道の中で書いているが、車窓から見る光景は、この事実を高濃度圧縮したかのようだ。この木々だが、いずれも自然な感じで、露骨に手入れされているようには見えなくても手入れが行き届いていると感じる。「木を植えています イオングループ」の国に住んでいるからか、この国の人にとっては当たり前のはずのことでも当たり前には思えない。
 木といえば、石造の建築物が多い街とはいえ、足場等様々な場所で使われていた。木の高層建築が数年前から話題になっているのを最近知ったくらいだが、それでも、新旧の折衷、ハイブリッドという言葉が生気を取り戻すくらい、この街では無意識下のレベルで生きて動いている考え方だと思う。
 こう思って程なく、「新旧の折衷というのは人間自体がそうではないか?」と気付くことになった。同じ大陸内にある異なる国同士の中には、直接的に隣接し合っている場合があるのと似て、自明のはずの自分の考えというのも何かを基にしなければ辿り着かない場合も多いということか。とにかく、「新旧の折衷があるから人間を好きなままでいるのか?」と思った。