Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

 地震も多いなら風が強い日も多い。日を時間帯に変えるなら、そんな状況はもっと多くなる。どういう範囲で捉えるかを、自由というより恣意的に扱い、その色眼鏡での観察結果を眺めて感想を口にする。そんな時間こそ、最も多いと言っても間違いではない。
 ともかく、今朝、ベランダで干したばかりの洗濯物が風で動き回るのを目にした。以前なら、大昔のフォークソングの一節のように、抒情的なことを思い浮かべて、その方向に向かって自意識は流れ出すのだろうと思った。そして、今は違う、久しぶりとはいえ、先日訪れた国の記憶が、空気が、このベランダに流れているのだと大袈裟でなく認めるような、そういう変化があると思った。
 屋内外をはじめ狭いエリア間での気圧の差から生じる風だったとしても、異様に遠い場所からも届いている風が含まれているという微かな実感がある。それは、嬉しいことだ。昔から、「厳密には、宇宙の果てだろうと、隣といえば隣だ。隣接しているじゃないか」という、強気な口調の割には、閉塞感に満ちた、自分で自分の殻を破ることができずに籠っているような考えがあった。今回、宇宙までは持ち出す気にならない。まず大気圏内で考えたいと思った。理由は分からないが、宇宙を持ち出すと、その途方もない解放感の一方で、何か大事なものを閉じ込めてしまう気もした。従って、現在地に対し地球の真裏側から届くというのが、物理的には最も遠い場所からの風ということになる。こう書いて、風には悪いが、文章の風としては、新鮮でも何でもない風だと思う。直接的に口にしなくても、気象庁や天気予報が散々言っていることだと。
 今朝思い浮かんだことは、そんな二酸化炭素めいたともいえる既存の発言に、自分が自分の経験を通して酸素を送り込んだのだと言いたくなった。経験の風速は、人間や生き物が巻き起こすもので、生きているのか死んでいるのかは分からないが、ともかく何億年かは分からない昔から吹いているものだろう。こう書いて、時間を超えて吹いているのもまた風だと気付いた。今頃とは、随分遅い。風を作っている、そういうのが言い過ぎなら、風を皆でこねているとでもしておこうと思った。正月でなくても。